Tatsunosuke Satake blog
イタリア-ミラノ在住のフリーライター "佐武 辰之佑"のブログ。
プロフィール

佐武 辰之佑(さたけ たつのすけ)

Author:佐武 辰之佑(さたけ たつのすけ)
1976年生まれ。富山県高岡市出身。
大学卒業後、各国を放浪しながら執筆活動を続ける。2007年よりミラノ在住。現在はイタリア・ミラノでフリーライターとして活躍中。取材、通訳兼アテンドなども承っています。

公式HP(小説好評公開中)
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本ブログ、サイトともフリーリンクです。



E-mail:tatsunon314159@yahoo.co.jp
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パスタと僕


 どうも、こんにちは。

 最近のミラノは天気の悪い日が続いています。
 イタリアも5月1日はメーデーということでお休み、連休なのですが毎年メーデーのときには友人たちとバーベキューをするという恒例があったように思います。今年の春は記憶にないほど天気が悪く明日のバーベキューはどうやら中止となりそうです。

 バーベキューはさておき、今日は久しぶりにパスタを作りました。
以前にも書いたかもしれませんが、僕は麺類が好きでイタリアで暮らすようになってからパスタを食べることが多くなりました。
 昔は平べったいのとか、ねじれたのとか、穴のあいたのとか、いろいろなパスタを試していましたが最近はただのスパゲッティーをよく食べます。パスタの種類もいろいろなメーカーがあるのですが、こちらもいろいろと試してみた結果、僕はボイエッロ(voiello)というメーカーのものを使っています。値段からするとバリッラという一番のシェアを占めているものよりは高く、デ・チェコという日本でも良く見かけるものよりは安いです。ボイエッロは500グラムで、1ユーロ弱ぐらいです。
 頻繁にスパゲッティーを茹でるようになりましたが、最近ようやくゆで方のコツのようなものがわかってきました。一般にアルデンテと言われ、髪の毛一本の硬さを残してゆで上げるのがベストと言われていますが、たいていの場合はゆで過ぎてしまいます。とにかく麺のかたい部分を必ず残さなくてはいけないというイメージを持つことが僕の学んだコツです。たったこれだけのことがわかるまでに4年ほどかかりました…。

 上の写真にあるのは「和風ペペロンチーノ」で、何が和風かというと粉末のだしを入れます。ただこれだけなのですが、だしのデリケートな風味が合わさってイタリア人の友人にも大好評です。この間の復活祭のときには15人分作ってみんなにおいしいと言われたので、良かったら試してみてください。
 ペペロンチーノというのはシンプルであるため実は難しく、上手に作るためには中華のチャーハンのように料理人の腕前が反映されると言われています。ちなみにイタリアではアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノといいますがレストランのメニューに載っていることはほとんどありません。言えば作ってくれますが、どちらかと言えば家庭的なパスタなのかもしれませんね。

 この和風ペペロンチーノを開発して、僕は何にでもハマりやすい性格なのですが、バカみたいに毎日食べていたら周りの人からやけに太ったと言われるようになったので最近はあまり食べないようにしております。
 

ミラノサローネ 2012

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今年は17日から始まっていた「ミラノサローネ」ですが、22日で終了しました。

 今年はこれで終了です。

 おそらく、また来年、よろしくお願いします。

ジェノバと海
 18歳になって免許を取ってからというもの、僕はかなり頻繁に海に行った。まるでそれが仕事であるかのように日常的に海に通った時もある。なぜ僕がそれほどまでに海というものを恋しがるのか、おそらくそれは決して理解できないものだからかもしれない。ただ海を見つめる。僕は海に入るということはほとんどない。僕にとって、それはただ眺めるものなのだ。
 ミラノに住み始めてから海を見る回数が極端に減った。思い立った時にパッと会いに行ける身近であったものが急に遠のいてしまって、海を眺めるという行為が僕にとっては特別なものになってしまった。
 去年車を買い換えたときに自分の足で海に行った。チンクエテッレまで3時間以上もかかり、観光客であふれ返っていた海は僕の期待とはほど遠いもので、逆に海が遠のいてしまったように思えた。今回は電車でジェノバまで1時間半、日帰りでも十分な距離だった。
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友人の死


 今週からサマータイムに入り、一時間世界の時間が進んだ。それにより生活も一時間変わることになったが、相変わらずこのサマータイムがやってくると不思議な気分になる。まるで学生の時の衣替えのように、みんなが一斉にそれぞれ色合いと形を変え、僕一人は取り残されたような気分になる。
 先日、友人が死んだ。
 その知らせを聞いた僕はしばらくぼんやりして何も集中することができず、ただむさぼるように本を読んだ。
 こうして何かを書かなくてはとは思ったが、実際に何を書いていいのかわからなかったし、実際に今もよくわからない。
 それは仲の良い友人のひとりだった。いろいろな思い出があり、そして繋がりがあった。もうしばらく顔も見ていなかったし、連絡もしていなかったが、僕にショックを与えるには十分だった。
 同い年の仲の良かった友人がこの世からいなくなったというのは、のほほんと生きていた僕にまさに首を切るようなショックだった。
 そう、それは死なんだ、と思った。
 正直、今の今でも僕は生きてゆくという価値があまりよくわからなくなることがある。死というものを意識しないということは、たいていの場合生に含まれているわけで、生を選びとっているということになる。こうしてよく生きていたなと思い返す時期もあったし、こうしてのうのうと生きていることに罪悪感に似たものを感じることもある。実際に身近な誰かが死んでしまうと、驚くほど身勝手に、わがままに自分が生きていて、さらに良く生きなくてはと思ってしまう。
 人生にはどうがんばっても望み通りにならないことがあり、そうして現実と夢をすり替えるように、あるいは取り替えて納得してゆくために、我々は生きているのだろうかと思うことがある。希望や夢がないと生きられないのは事実だとしても、あまりにも希望が多いとそのぶん失望も多いということになる。

 我々は生きていて、それが当たり前に思えてしまうものなのだろう。それは経験的に年月を過ごしてきたからであり、基本的には今まで通り世界は回ってゆくものだろうとどこかで思っている。しかし、そうではないということをときどき知る。そして僕がまだ生きていることを感じ、どこかで止まった時間のことを思う。
「死の意味は、残されたもののためにある」とは言うが、それはとても個人的なものであり、人間の孤独をさらに浮たたせるように思えてくる。


ミラノの桜、そして散りゆくもの

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